昭和49年12月27日 朝の御理解
御理解 第76節
「人間は人を助ける事が出来るのは有難い事ではないか。牛馬は我が子が水に落ちていても助ける事が出来ぬ。人間が見ると助けてやる。人間は病気災難の時、神に助けて貰うのであるから、人の難儀を助けるのが有難いと心得て信心せよ。」
「人間は病気災難の時、神に助けて貰うのであるから」と。もちろん是からとても助けて貰うのですし、また助けて貰っておると言う事。その助けて貰っておるという感動。その感激がなからなければ、人を助けると言った様な働きにはならないと思うです、ね。まだ椛目のお広前が、の時分、もうそれも始めの頃でしたでしょうか。樺目のお広前のご承知の方は、お広前の西側がお手洗いになっておりましたですね。電気が点いてなかったんです。あの一番始めの頃は。
それがおかげを頂いて、配線をしてもろうて、5蜀の電気が点く様になりました。その戸を開けてお手洗いに行く、そうですね2尺位のお縁を伝うて、あのお手洗いに行きました。そのお縁を伝うてまいります時に、今までは夜なんかは手探りの様にして行っておったお便所に、5蜀の電気が点いたんですから、もうそれが有り難うして有り難うして、お便所に入りながら、合掌しながら、5蜀電気を拝みながら便所に行ったもんです。もう便所のね所謂その扉にもう、ばちばちね、お勇みが付きよりましたよ。
もう一生お風呂などに入ろうとは、もうさらさら思ってませんでしたからね、まだ椛目に人がどんどん助かる様になってからでも、朝晩水行しておりましたから。もう一生お風呂は入らないことにしておりました。ところが不思議な事に、タオルとか石鹸とかが次から次にお供えがあるんですよね。そしたら、最後には所謂小さい、一人入りのお風呂桶のお供えが御座いました。その事を神様にお届させて頂いておりましたら、神様がお風呂を入る事をお許し下さるんです(感動されてる)。
もう始めてお風呂に入った時、私はあの風呂の渕にしがみ付いてから、もう泣けて泣けて使用がなかった。ね、人間が風呂に入るなんてもう当たり前の事。云うならお便所に5蜀電光が点いておると言う様な事は、もう当然の事。5蜀所じゃない、もう便所にはもう百蜀、出来るだけ明るうてなかにゃいかんというてもう、そんお手洗いなんかはもう、あの三つ付いてある。大きな電気を三つながら点けて入る人がある。
私はもうずっと後ろから、点けて回る人の後ろから行ってから、かつがつ消して回る。昨日も、夜中に一遍通り回らせて頂いたら、あっちこっちやっぱ電気が点いてる。それで、まぁ消して回るんですけれどもね。もうそれはね、惜しいとかね、そう云う事じゃないんです。ね、もう有り難うして有り難うしてこたえんから消して回るんです。まぁそう云う風に、あの思うともう数限りがありませんけれども、最近はもうお供え物が、食堂それからあちらの勝手の方にもう本当に、あの山積みになっております。
ですから本当皆さんにでも、分けて差し上げたい皆さんにも持って帰って貰たい。そう言う様な気もするですけれども、神様はそう云う事をお許し下さいませんね、ですから唯心配な事はこういう沢山なふんだんなお供えの中に、昨夜もお食事の時でした、前日のおにぎりが沢山あまってるんです。それでそのお修行生の方達が、お食事してますけれども、結局あの新しい炊き立てのご飯を食べよります。出してあるけんだから私はおにぎりを、持ってこらせてから頂いてあの運んで来る人達にもうしました。ね、
もうそれこそ小倉の桂先生当たりの様な、あぁいう大徳を受けられた、あぁいう徳者の所でも、とにかくあのお食事、あん時に、サンマならサンマが一匹付いとったら、今日はおかしら付があるというて、修行生の方が喜んだというのです。桂先生が大阪の近藤先生の所に始めて修行においでられた時に、お粥さんに沢庵が出た。だからその沢庵を食べてしまわれた。そして他の修行生の方達から、お前が沢庵食べてしもうたから俺達はなーにも、ほんな塩かけて食べたっち。
いうてもう喧しくいうて怒られなさった。ね、もう沢庵でもそんなに、もう何切れずつかで、お粥さんを頂くというのが、普通であった。だからその時に怒られた事を、桂先生が思われ、その後々言っておられます。うちで今度もし自分の所で修行生が出来たら、お漬け物だけは充分に食べさせようと思うたと言っております。けれども他のお魚、魚切れなんて普通はある事、もう昨日などはねもうそれこそ、もうビフテキの肉が何十人前、それからわざわざ昨日は神戸からあの。
今日召し上がって頂きたいというて、飛行機であのお参りをしてきた方が、神戸の所謂あの肉を持って来ました。少し買って参りましたらもう、桜の花の様にこう見事に皿にもった肉がありますから、ほうこりゃといったらこりゃあの豚肉です。と言う様にですもう本当にそれこそ、例えばなら肉なら肉の事だけでも、あのそんなに勿体無いおかげを頂いておる訳です。ですから是が当たり前の様に思うて、そしてあのまぁ言うならば有難さも何もなくなってしもうて。
お粗末にどもする様な事があってはならないと言う事だけは心配致します。私は昨日、その前の日のおにぎりの残りを頂かせて頂きながら、もうそれを今度は、私がおにぎりを食べると言ったもんだから、ちゃんとそのおにぎりをレンジに掛けて来ちゃるんです。もうこんな勿体無い事をしてから、とまぁ言う訳で御座います。もうそれこそもう、ケーキなんかも、もう食べ散らかしとるでしょう。子供達が沢山食べたんでしょう。あの大きなケーキですから。
それでもう切り端の残っておると、もう皿にも物にもこう盛って、こう風呂敷被せてあります。お粗末にならん様に、もう本当にこういう勿体ないおかげを頂いておると言う事をです、本当にあの思わせて頂きます時にそれこそ、桂先生じゃないけれども、小倉のお粥さんは、ね、いわゆる目玉粥という名が付いとる。お客さんなんかが一人あると、ひしゃくに一杯お水をいれなさる。二人あると二杯入れなさる。もうそういう時なんかはもう本当に、もう薄う御粥であった。
お粥さんの釜の上ばこう覗くと、なんかぎらぎら光るもんが中に入っとるげな。なんの自分の面玉が映っとると言う訳。だから目玉粥。小倉の目玉粥というて、ね、そう言う風にして、昔の先生方は修行なさった。所がそういう先生方の、言うならお徳というか余波というか、合楽の場合なんかはもう勿体無い勿体無い。もうどれ程頂いても頂いても、それこそもう今冷蔵庫が、ね、あの大きな冷蔵庫が幾つありますか。三つ、一つ、二つ、三つ四つ、五つあります。
小さい冷蔵庫共もうそれにもう、どれを開けても一杯色んな物が入ってる。ね。本当に是で粗末にならん方が不思議と思う位にです、けれどもそれがお粗末にしては、まぁならないと思うてまぁ、勝手の方でも一生懸命やってる訳でしょうけれども。そしてその、溢れておるもんですから、ね。そういう中に本当に、茶粥一わんで過ごさせて頂いた時分の事を思うたら、もう勿体のうして勿体のうして、口授じゃないけれどもです、頂かにゃおられない。例えば昨日申しました。ね、
おにぎりなんか例えば色々残ったものが沢山ある時にはね、一つあの皆修行生という事はいらん、家族中の者がですね、注ぎ渡しなさいと私は申した。おにぎりでも、例えばケーキなんかでも、食べにゃおられない様な時には、注ぎ渡して、自分の好きなもんから、よかもんから頂いて、残ったのは手を付けようともしない。結局女の人達がほんなら、冷いご飯やら、おにぎりやらの残りを食べんならんと言う事は決まっとらん。
男の修行生でも誰でも。皆んな注ぎ渡しなさい。もう目の前にちゃんと食べれ、というて言わんばかりに出してあったっちゃ食べもせんじゃないか。そう言う事じゃ修行にもならん。というてまぁあー、口上言わんならんなら程しにおかげを受けている。どうぞ一つ皆さんもね、合楽に御神縁を頂いた始めの時分に、ね、お金がのうて、あっちこっちに借りまわった時代があった。もう本当に金に不自由する位、難儀な事はない。あれにも不自由、これにも不自由。
段々五年、十年、二十年と信心を頂いておる内に、それこそ貧乏のない争いのない、病気のないと言う程しの、おかげを銘々が頂いておられる。ね、所ではない最近は真善美と言う事が言われるから、何処のお家に行っても、ね、部屋が綺麗になり家が立派になり。調度品が立派になり、それこそ掛物、額類まで立派な美術品がかけてあると言う様なです、おかげを頂いておる。ね、
おかげを受けた始めの頃を忘れなければと、教祖様は仰っておられる。人間は病気災難の時神に助けて貰うのであるから、是からも勿論助けて貰わなければならんがです、助けられておるという私は実感と言う物がなからなければ、実働になって遷らないと思うです。ね、あの時分の事を思うたらね、それこそ涙が出るこぼれる程に有り難い。便所に5蜀光の電気が点いた時にそれこそ、それを拝んで便所に入らせて頂く。神様のお喜びをそこにですいうならば扉に、お勇みがつくと言う程しの事であった。ね、
おかげを受けておるおかげを受けた。ね、また受けて来ておるという、私は是が人を助けると。事の根本になると思うんです。言うならば合楽示現活動というてもです、自分自身がおかげを受けておる事実がです、ね、嘘の事を言う事はいらん、自分がおかげを受けておる事実を人に話しなさい。私の信心の無い者、言うなら無い時、信心を頂く様になってから、おかげを頂いた此の事実をね、私は人に伝えて行く。して、示現活動に参画させてもらう。そう言う意味で言うならばです。
合楽に御神縁を頂いて、五年十年と信心を続けておる程しの人ならばです、本当にその感動が生生しく心に甦って来る。有難い物が感じられる。その有り難い感じを、そのままにです、人を助ける事の働きに精進させて貰う。そこに昨日から頂きます。紗迦精進のおかげが頂けれる。ね。人を助ける事が出来るのは有り難い。それが只簡単にです、ね、金の無い人に、金を持った人が貸してあげたり。食べ物が無い人にです、食べ物を恵んであげたり、ね、そう言う意味でも助けられます。
けれどもそれは本当に助けると言う事にはなりません。ね、自分がおかげを頂いた。自分が難儀をしておる、難儀をしておる時に、助けられたその喜びというそのね感動がです、ね、私共は信心によってこういう時にこういうおかげを受けたという、その感動をです、ね、人に伝えて行く。そして信心させてこそ始めて、人を本当の意味において助けると言う事が出来るのです。
只その場その場限りの助けではいけんのです。昨日も年末の、それに誰々さんからお金を借りたい。ね、そりゃ貴方が行きゃ貸しもしなさろうけれども、ね、けれどもその、それをかってしたんではね、言わば助けてもらう訳ですけれども、それではあんたの信心にならん。ね、今日までおかげを受けて来ておる、事実体験も持っとる事だから、ね、そこに人に縋らづに、神様にすがり抜いておかげ頂きなさい。ね、
そうして居る内です、こっちから行かんでもです、例えば向こうから、使こうときなさいと言った様なお繰り合わせを頂いたなら、また別だと私は申しました。ね、そう云うおかげを頂かなければ有り難いと言う物の、蓄積にならんです。私自身がね、言うならば「人間は病気災難の時に、神に助けて貰うのである」からと。もう勿論助けて貰うのであるからですけども。助けて貰うておると言う事なの。
事実は。ね、だからその助けて貰うておる中です、段々日にちが経つに従って、ね、それを希薄になって来る。薄くね薄くなって来る。こん時あの時分にあっちこっち金借りて歩いて、いうなら借金を断り言うて廻って。辛い思いをした時に、お繰り合わせを頂いておる、またあの時分からいうと、言うなら今借りに回らんでも良いと言う程しのです。おかげを受けておるとするならば。
その時分の事を思うただけでも、なら私がね、ね。始めてお風呂に入らせて頂いた時。所謂便所に5蜀光の電気が点いた時の事を思うと。言うならもう感動が湧いて来る。おかげを受けたもんじゃあるなぁ。そのおかげを受けたものじゃあるなぁと云うその、実感がね、神前奉仕にもまた、お取次ぎの働きの上にも現われてきてこそ、始めて人が助かると言う事になる。皆さんとても同じ事。
おかげを受けておる、その事実を思出だして実感がもう湧いて来んごつなっとったらです、それは愈々信心は考え直さなければいけません。信心のおかげの受け始めの頃。おかげを受けた時分のことを、ね、忘れなかったら、おかげと教祖様が仰っておられる様に、ね、其の事を思うたら、感動が湧いて来る様なおかげでなからなければいけない。その感動を、人に伝えて行ってこそ、本当の意味において、人が助かると言う事になるのじゃないでしょうかね。
どうぞ。